ビーマニッキ(実質エリアトラウト

もう皆伝になれないおじさんがエリアフィッシングにハマる話

今日のビートマニア(94)

明日明後日・・・それ以降とちょっと弐寺の更新は無さそうなので、今日はボリュームある日記を書きます。



そう・・・・これはオレがビートマニア・・・音ゲーに出会った歴史である。



当時小六の12歳、オレは友人のAが携帯用のビートマニア(5KEYS)の玩具をもっているのに気付いた。それはAの所有物で、携帯型テトリスと同程度のサイズであった。
『なんか楽しそうだな。』と思った俺は、思わずそれを借りることにした。これがオレのビートマニアの歴史の始まりである。


そのゲームのLvは10段階。最高難度のLv10にはLUV TO ME / tiger YAMATO』があり、地獄の縦連打が凶悪だったのを覚えている。クリアできなかった。Lv9は『〜〜MACHINE』とかいう曲で、勿論名曲『e-MOTION』もあった。



それから暫くたたないうちに中学生になり、中1の時(2000年)オレはKONAMIから出ている『beatmania 5KEYS』を買ってしまった。当時はアペンドディスク(5TH、4TH・・・)というシステムがあって、ベースの『PS ビートマニア』を起動した後、アペンドディスに入れ替えることで多種多様な曲がプレイできた。
今でもクリア出来ないだろう『ska a go go』なんて曲もあった。曲はカッコイイんだが、無茶苦茶詰まってて手が間に合わないのである。後は『NAHA NAHA and GACHON BATTLE(スペル不明)』など楽しい曲も多かった。あの時がビートマニアを一番楽しんでいた時期だったのかもしれない。



当時オレの地元は田舎であったため、ゲーセンにはビートマニアの5keysしか存在していなく、そのため弐寺の存在にはまだ気付かなかった。しかもPS2なんてゲーマーか金持ちしか持っていなかったので、PS2弐寺が出ていたことにも気付かなかった。



だが、オレが中2になった頃、同級生になったNOBという男がいた。そこでオレとノブと他UやTは親睦を深めるついでに一緒にゲーセンへ行った。それが始めての弐寺との出会いである。そのゲーセンの名は『CLUB FESTA』。そこでオレの知らないビートマニアⅡDXを初めて目撃した。これは『5th STYLE』であった。
・・・そしてノブはオレには未知の領域の謎譜面『R5,V,presto』などをクリアしてみせた。圧倒的だった。華麗だった。あの時のオレの高揚感を伝える形容詞は存在しないほどの感動があった。それがオレと弐寺との始めての出会い・・・。



まぁそんなこんなで、早速cs7keysを手に入れて練習に練習を重ねた。この練習に使ったのは『3rd style』である。左スクラッチは非常に難しく5keysとは全然違っていた。取り合えず、EASY付きで7keysの『一部のLV 7(当時LV 7が最強)』以外は出来るようになった。相当練習したので、ここまで来るのに1ヶ月か2ヶ月くらいでこれた。だがサファリはもう凶悪なことこの上ない、全く出来なかった。



あの当時、弐寺人口は今と比べると遥かに少なくDDRも5THが稼動していた。弐寺は6THになっていた。そうこうしているうちに、オレは弐寺を初プレイするためにゲーセンに出陣した。まずここで問題が発生した。『スクラッチの距離が遠いこと』、『台の高さがあわないこと』である。
案の定全く出来ないで、辛うじて出来たのが『LEADING CYBER』と『.59』だけだった。其の時は高さは重要だということに気付き、靴を脱いで高さを調節したりしたくらいである。



それから更に2ヶ月程経過したが、まだ6thが稼動していた。その頃はCSで借りた『4th STYLE』をプレイして実力upを狙っていた。チェッキン、ボルテージ、ミニマリアンは出来た。だがB4U、アブソ、DXY!等は全くできなかった。つまり今で言うところのLV7までは出来たということである。



そしてアブソもどうにか叩けるようになった頃、6thに『COLORS』という高難度の名曲が埋まっていたことに気付いた。何が何だか分からない凶悪譜面。だが、メロディはかつて最高といえるくらいの名曲だった。オレはまったく出来なかった。Uもモグロも全く出来なかった。
だが、ここでもノブはあっさりとクリアしてやがった。なんて野郎だコイツ。DDRはMAXシリーズになったのだが、このノブはMAX300(当時4ミスでゲームオーバー)をクリアし、『キャンディ☆』まで出してやがったのである。キーボードマニアもドラムもできた。こいつはまさに音ゲーを支配していた。俺の憧れだった。



とにかく『COLORS』をクリアしたいがために、家庭用で地力上げしていた。それから2週間ほどしてアブソがクリア出来るようになって、ファンタジーやファイナルカウントダウンも出来るようになってきた。
するとどうだろう、あれだけ出来なかった『COLORS』が出来たのだ。もう感動して鼻水が出た。そこからはもうG2だろうが、ネメシスだろうが余裕だった。
ノブはナイトオブファイヤ穴、G2穴をクリアしていた。その弟子のオレやUは、なんとかネメ穴をクリアできるようになっていた。この頃リッツさんもプレイし始めたのかな。


また暫くして、正月があけた。



まだオレは中2でゲーセンでは6THである。だがオレはここでもある重要なことに気付く。あれ『take it easy』ってムズくね?今でいうハイパーの方であるが、☆10じゃねぇだろうってくらいオレは出来なかった。んで正月もあったことだし、なんか抱負をば・・・と思って『TAKE IT EASY』をクリアするという目標を作った。あっという間にクリアできた。ボーダーだったけど。


そうしてようやく7thが稼動して、Aやストイックみたいな明らかに難しい曲に出会った。



ここからは割愛するが、Aは純粋な階段であったため、そんな譜面に対応したことの無いオレはさっぱり押せないのである。しかも北斗だった。当時は皆北斗だったかと思うくらい北斗が多く、Aは苦戦したはずである。一応オレはストイックは苦戦したもののどうにかなった。Aはたまに出来るようになってきたってくらいであるが運任せだった。




そうして・・・8THがでた。
だがもうそのころは、ノブが弐寺から去っていった。音ゲーを卒業していったのだ。各々理由はあったが、オレは悲しかった。中高一環だから、卒業してバラバラということではないのだがね。あるものは野球部へと進んで行ったりした。



オレは地道に8thをプレイしていたが、やはり8thが終わる頃には、オレも殆ど離れていった。9,10と一応プレイはしていたが、ほとんど記憶に無い。辛うじて覚えているのが、クエはフルコンできたということ。イノ灰は易クリアできたということ。ムンチャや13も灰は出来たということ。壱八穴は易クリアできたということ。



そして高2の時、またREDをちょくちょくやりだす。週2くらいの割合ではあったが。しかも1プレイのみであったが。まぁ蠍火は易クリアできた。ギガデリやフェイクは1回たりともプレイしなかった。



そんでハピスカモリオがオレより上手くなっていた。赤ぞぬ穴とかクリアしてたし。オレはムリでしたが、☆11ではワンブルやリソナタとかが出来ました。



ようやく今年7月にDDに触れる機会が設けられ、そこからオレのビーマニの歴史が再稼動したわけである。8月には☆11は半分くらいしか出来なかったけど、そこから5ヶ月。ようやく☆11は全部埋まったし、☆12もいくつか出来るようになった。そして今回の稼動は、出来るだけ長く続くように頑張ります。





色々長く書いて、脈絡が無さそうだけど、こんな断片がオレの歴史です。
ちなみにオレは中学時代は野球部で、高校時代はプーでした。ここにでてくるU,A,K,リッツ,ノブ,モリオなどは人の名前です。